teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ]


天皇は百済でもなく、朝鮮でも、ありません、では何処に天皇は、存在していたか? それは中国の福建省屏山平山の治城、の王「無

 投稿者:児島宮歴史研究室  投稿日:2017年 9月13日(水)14時50分20秒
返信・引用 編集済
  天皇は百済でもなく、朝鮮でも、ありません、では何処に天皇は、存在していたか? それは中国の福建省屏山平山の治城、の王「無渚」に天皇が見える。

治城、の王「無渚」が漢祖となる劉邦を、助けて、これからビン越となのり、孫の越王丑が、白馬三郎と呼ばれ、その地で、中国で寺に仏が建立されたと言われていた。

越王丑が漢の武帝に、責められ、ビン越の城村から十万人が、いなくなったと、記録されています。
この時のビン越の天皇こと神は、中国から消えて、しまったという事です。

ビン越の天皇が中国から消えて、漢の武帝は朝鮮に進出、し三韓としました。
ここ三韓では、ビン越天皇が居た事など、あるはずが、ありません。

それはこの時期日本が、ビンエツによる天皇中心の国になっていたのは、他にあるわけは、ないのです。
三韓の支配は漢の武帝だと司馬遷が記録している事から、はっきりしている。

ここに、三韓には、天皇の記録等、あるわけは、ない。 日本に渡来等なかったのです。
だが越王丑の別名ウガヤの長男が、母、玉よりの里に、向かい、その地で新羅の王となっています。
 
 

佐々清蔵は佐々成政の兄、間違いの佐々系図

 投稿者:児島宮歴史研究室  投稿日:2017年 9月10日(日)12時57分56秒
返信・引用 編集済
  佐々清蔵は佐々成政の兄、間違いの佐々系図は、佐々清蔵が本能寺で、死す、清蔵には子がおり、佐々五郎四郎の母子は成政が熊本で失脚した後、京都に移り、京都所司代の前田玄以(豊臣五奉行の一人)方に身をよせたとのこと。「尾張佐々系譜」によれば、五郎四郎の他に弟と妹がい。

佐々成宗(盛政とも)の子。正次ー長男佐々清蔵ー
佐々成宗(盛政とも)の子正次ー次男佐々成政

菅原ー成宗(盛政とも)余語右衛門大夫ー佐々成政とありー信治、成治

正次ー佐々宗政、清蔵 (?~?) 佐々成政の兄。

佐々成政 系譜 正室:慈光院 - 村井貞勝の娘長男:松千代丸 - 天正2年(1574年)長島一向一揆討伐において戦死(但し後世の系図に載るだけで当時の史料からは実在を証明できない)

佐々氏の出目、佐々氏の出自については二説がある。ひとつは佐々木盛綱の子加地信実の八男氏綱が、上総国佐々庄に住み、佐々氏を称したというもの。佐々氏を称したという説もあり、いずれも確定的とは言い難い。http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sasa_k.html
佐々氏は成政の代になって、史上に名をとどめることになった。したがってそれ以前の系譜がはっきりしないことは無理のないところである。成政のころには、佐々氏は尾張国春日井郡比良村の在地領主であった。




政次は桶狭間の戦いのときに戦死 正次ー佐々清蔵ー

政次の長男が亡くなったのが1582年
長男に更に弟と妹がいた

岳星院は佐々清蔵に嫁いだ、

尾張群書系図部集 - 13 ページ に比良郷住来住して、後尾張藩に仕える(「張州雑志」)。 0 佐々又左衛門加賀国の人。尾州春日井郡平田村に參佐々清蔵「六百六十貰文。ァラコノ郷」(「同右」)。雄分限帳」)。「三百五十貫文。青山ノ郷内。今以。


勝家には柴田勝政や柴田勝豊、柴田勝敏や佐久間勝之といった養子がいました。このうち柴田勝政は勝家の姉の子供にあたる人物で、賤ヶ岳の戦いで敗死したと言われているのですが、その子供にあたる柴田勝重が江戸幕府に旗本として仕えており、柴田の家名を後世に伝える事に成功しています。

柴田勝重の娘が佐久間甚九郎の妻となっています。
柴田勝重の妻は,瀧沢、源頼光の末裔の娘とあり。

佐々輝子(? - 1630年)は今上天皇の直系祖先です。Pseudo Hacksでは、今上天皇の直系祖先とされる歴史上の人物の一覧(約2700人)と、各人物から今上天皇に至るまでの系譜を掲載しています。これは、まったく、デタラメです児島宮歴史研究室 。



 

『夜須に礼をつくす』という意味、やすらい祭(やすらいまつり)は、京都市北区で行われる祭

 投稿者: 児島宮歴史研究室  投稿日:2017年 9月 2日(土)17時41分22秒
返信・引用 編集済
  明治以前においては 博多の松囃子が 朝倉夜須村に残る 宮家に参詣していたとする 伝承もあ.る。

語尾に 「やす」という言葉を使いますがが 宮廷言葉からきたもので
「やす」は 「夜須」が語源だとの事
寂蓮
藤原時代の歌人、中務少輔、僧俊海の子、幼にして才名あり、叔父俊成養つて子とし中務少輔に任ぜられた、俊成の子定家生るゝに及んで避けて僧となり、名を寂蓮と改めた、丹青の技に秀で和歌を善くし世に称せらる、当時僧顕昭また和歌の道で自負する処があり、寂蓮とも交深かつた、顕昭は学識該博であつたが才思乏しく寂蓮は学識は顕昭に及ばなかつたが、和歌は顕昭の上にあつた、顕昭の曰く、和歌は芸に於て至難なものではない、寂蓮の如き学ぼずして猶ほ能くすと、寂蓮の曰く、天下にむつかしいもの和歌の外にはない、顕昭の博学に於てすら猶ほ能くし難いと、顕昭答へることが出来なかつた、建仁二年七月二十日歿す。  (大日本史)http://www.arc.ritsumei.ac.jp/opengadaiwiki/index.php/%E5%AF%82%E8%93%AE

世にこれを夜須礼やすらいという」とあります。 現在の練り行列は、先立・鉾・督殿(リーダー)・小鬼(少年二人)・大鬼(赤毛と黒毛のシャグマをかぶった各二人)・花傘・音頭取り・囃子方の総勢数十人が時代衣装をまとって練り、要所で踊り歌います。歌に「花や咲きたる、やすらえ、花やー」と囃子言葉が入り、やすらい祭の根底には田遊び・田楽がとどめられています。

中世の日本人は「やすらい花」(「安らい」、「夜須礼」とも書かれる)と称する祝い踊りに興じたが、これは現代でも多くの神社で祭礼としてつづいている。

「夜営」やえい
やすらい〔やすらひ〕【安=楽/夜須礼】の意味
やすらい祭にうたわれる歌。また、その囃子詞?(はやしことば)?。

沖縄の歌もやえいで歌われている。
夜営やえい栄えるという意味 うた 七五調 十九の春ラッパ節 歌合い 与論小唄 鹿児島・沖縄特集 - メロデーが変わるYouTube
https://www.youtube.com/watch?v=JzLW4Hah0NE#t=1318.7729607

やすらい‐はな〔やすらひ‐〕【安=楽花】の意味 華夏族によって、夜須は始まっていた。

夜須礼とは - 歴史民俗用語
夜須礼とは?歴史民俗用語。 「 やすらい祭り 」に同じ。 >>『三省堂 大辞林』の表記・記号についての解説を見る.

やすらい祭(やすらいまつり)は、京都市北区で行われる祭の一つである。特に、今宮神社で行われる大祭として知られる。 目次. [非表示]. 1 概要; 2 祭事の流れ; 3 脚注; 4 関連項目; 5 外部リンク. 概要[編集]. 「夜須礼(やすらい)」「鎮花祭」「やすらい花」とも

夜須礼 #鎮花祭 #やすらい花 #花傘 #無病息災 #上賀茂 #京都三大奇祭 #京都

『夜須に礼をつくす』という意味
明治以前においては 博多の松囃子が

朝倉夜須村に残る 宮家に参詣していたとする 伝承もある.
博多松囃子 に よく似ています
やすらい を 「夜須礼」と書くそうです
『夜須に礼をつくす』という意味なのでしょうか
http://hisamitsu.exblog.jp/25115105/

明治以前においては 博多の松囃子が
朝倉夜須村に残る 宮家に参詣していたとする 伝承もあるのです
( 文献として 残っているかどうか 調査中 )
明治以前においては 博多の松囃子が

朝倉夜須村に残る 宮家とは、天皇家の事で、その証拠が、隣りの柴野大徳寺、高東院(近代改名、高桐院)に、南北朝時代の、児島高徳末裔が眠る、意味という、高い東ので、太陽(天皇)で、高東院と、徳川家光の寛永系譜帳の佐久間氏系譜に載せているのが、高桐院ではなく、高東院とされています。
この佐久間不干斎の子孫某、甚九郎正成、と孫九郎と寛永系譜帳に、載せています。

高東院とは天皇宮家であり大徳寺の塔頭高東院(中心)と、昔は、そうなっていたそうです。


児島宮歴史研究室 はい、昭和の始め、福岡県朝倉郡夜須村篠隈の、天孫降臨地、に、博多どんたく隊、おなご衆が、隊の出発点になって、いました。
しゃもじを、踊りながら、鳴らして、いたのを、めずらしいので、その訳は、今まで、判りませんでしたが、ようやく、京都今宮神社のやすらいと、隣りの柴野大徳寺、高東院(近代改名、高桐院)が何故存在、していたのか、その謎が、京都の北に 《今宮神社》ページの説明で、一致したのが、福岡県朝倉郡夜須村(筑前町)篠隈の天孫降臨地、と相対していたので、古代の歴史が、関連している事が、これで判りました。

夏礼=夜須礼
夏礼とは
「礼」とは何

中国では古来から(音楽は夏王朝時代)

夏礼を継承して設礼を作った。

孔子はこう答えられました、
「絵を描くとき最後に胡粉(こふん)で仕上げをする様なものだ。」
「礼とは人間の仕上げの様なものですか?」と問うと、孔子は、
「これは私でも気づかなかった。これからはお前と詩経について語り合う事が出来そうだ。」
と答えられました。http://6302.teacup.com/kodaigiten/bbs/420

夏礼??夏王朝的大法-中国古代法制 - 古?文翻?
夏の儀式は、内容と形の両方から、神を中心にしています。 神の夏の奴隷君主は非常に畏敬の念であり、しばしば大事な儀式を開催し、それが国家であろうと個人的な生活であろうと、ウィザードによって神に「相談する」必要がある。 すべてが天国の名のとおりです。 王位は「運命」として知られる日までに与えられ、「議論する日」と呼ばれる軍事征服は、「日の罰則」として知られる犯罪を処罰する。 夏は典型的な神権法時代です。 https://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&sl=zh-CN&u=http://yw.eywedu.com/wenhua/HTML/4702.html&prev=search


「やす」は 「夜須」が語源だとの事

大切な、やすらい、資料を、ありがとうございました。
これで福岡県も、古代の歴史が、よみがえる、でしょう。
不明の邪馬台国がようやく、日の出となったようです。
 

仁和寺上乗院門跡制度こそ、天皇(上乗院門跡から転送)御手本であった、明治に棄却したといい、明治天皇が、明治に棄却したとなる

 投稿者:児島宮歴史研究室  投稿日:2017年 8月23日(水)20時31分40秒
返信・引用 編集済
  (上乗院門跡から転送)上乗院失くして、天皇家は、何も無し。明治に棄却したといい、明治天皇が、明治に棄却したとなる。

これにより明治以降は、天皇とは無関係になっている。それは大覚寺と関連し東寺を真言、空海につながっていた。

上乗院(じょうじょういん)は、京都にあった寺院。仁和寺の脇門跡(院家)。禅林寺や南禅寺の近くにあった。下河原門跡。南禅寺や聖護院内などにも上乗院という寺があり、あるいは蓮華光院門跡とも混同されることもあったらしい。
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2017年7月5日 (水)http://shinden.boo.jp/wiki/%E4%B8%8A%E4%B9%97%E9%99%A2%E9%96%80%E8%B7%A1

住職

『望月仏教大辞典』に以下の22代の名を載せるが疑義あり。他の上乗院と混同している可能性がある。歴代数は新たに付した。
1道乗(1215-1273):門跡初代か。頼仁親王の王子。蓮華光院門跡住職。東寺長者。小島宮と呼ばれた。五流尊瀧院を継いだともいう。

蓮華光院


出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2017年8月19日 (土)




蓮華光院(れんげこういん)は、京都府京都市東山区にあった、真言宗の門跡寺院。本尊は毘沙門天。元は仁和寺の院家として太秦安井に建てられた。のち東山に移された。大覚寺が兼帯した時期もある。明治に廃絶となったが、旧鎮守の安井金比羅宮が残る。安井門跡、下河原門跡、小川門跡、岡崎門跡などと呼ばれた。上乗院門跡と混同されることもあったという。
道乗(1215-1273):頼仁親王の王子。上乗院門跡住職。東寺長者。小島宮と呼ばれた。

歴代住職
道尊(1174-1228):真言宗の僧。以仁王の王子。後白河法皇の孫。おじの守覚法親王に師事。1206年(建永1年)3月8日東大寺別当101世(「次第」では17日、91世)。在任中、重源が死去している。1028年(長元1年)11月14日拝堂。同年、仁和寺別当、東寺長者。1210年(承元4年)4月、東大寺別当を辞任。ついで護持僧。1221年(承久3年)仁和寺御影堂供養。1226年(嘉禄2年)12月1日、東大寺別当105世に再任。1228年(安貞2年)辞任。8月5日死去。蓮華光院門跡を創建。西院、安井宮と号す。(『東大寺辞典』など)
道乗(1215-1273):頼仁親王の王子。上乗院門跡住職。東寺長者。小島宮と呼ばれた。
道円法親王(1224-1281):土御門天皇の皇子。西院宮、安井宮。
道融
性融法親王(生没年不詳):亀山天皇皇子。
益助法親王:岩蔵宮出身。上乗院門跡住職。
益性法親王:亀山天皇皇子。上乗院門跡住職。
益守法親王
乗朝法親王(生没年不詳):常盤井宮恒明親王の王子。上乗院宮。上乗院門跡住職。
道永法親王(?-1535):貞常親王王子。上乗院門跡住職。
寛守法親王:上乗院門跡住職。
道朝法親王(1378-1446):後円融天皇の第2皇子。上乗院門跡住職。
義昭(義照)
性演:中興
道恕(1668-1733):久我広道の子。東寺長者。東大寺別当。
了尊(生没年不詳):東大寺別当。

(『日本仏家人名辞書』、望月信亨『仏教大辞典 付録』)http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%93%AE%E8%8F%AF%E5%85%89%E9%99%A2

大覚寺が兼帯した時期もある。明治に廃絶となった。 孝明天皇の時日の丸旗を、児島宮家孝明天皇が託した。

児島宮家は続いている、日本の天皇家の事である。
これらの(上乗院門跡から転送)蓮華光院(れんげこういん)は、京都府京都市東山区にあった、天皇家一門が見える。

本來「門跡」とは、師資 ... 准門跡」は、蓮華光院(文政四年正月以降、大覺寺門跡の兼帶となる)

門跡

平安初期には一門の祖師の法統を継承する寺、またはその僧をさした。宇多法皇が仁和寺に御室を造り密教潅頂を伝えたので、後世これを御門跡と呼んだ。その後、法王・法親王の開設・住持する寺院を御門跡と称した。
室町時代ごろから一種の寺格となる。江戸幕府は門跡を制度化し、法親王の住持する宮(みや)門跡、摂家(せっけ)の子弟の住持する摂家門跡、そのほかに清華(せいが)門跡・公方(くぼう)門跡・准(じゆん)門跡を区別して設けた。

天台宗
1. 青蓮院  粟田口
2. 妙法院  大佛
3. 曼殊院  竹内
4. 輪王寺  上野
5. 毘沙門堂 山科
6. 圓融院  大原
7. 圓満院  三井
8. 聖護院
9. 実相院  岩倉

この内、青蓮院・妙法院・圓融院は山門の座主を兼ねるので叡山の三門跡。圓満院・聖護院・実相院は三井の三門跡。

真言宗
1. 仁和寺  御室(おむろ)
2. 大覚寺  嵯峨(さが)
3. 三宝院  醍醐(だいご)
4. 随心院  小野
5. 勤修寺  山科(やましな)
6. 蓮華光院 安井

法相宗
1. 一乗院  南都
2. 大乗院  南都

浄土宗
1. 知恩院  東山

浄土真宗
1. 本願寺 (本願寺派)
2. 本願寺 (大谷派)
3. 専修寺
4. 仏光寺
5. 興正寺

1871年(明治4)諸政一新とともに門跡制度は廃止、以降私称として使われる。

門跡制度は廃止では、全国の神社仏閣は、成り立たない?天皇主体、太一無き、明治~平成となる。
今の門跡は、天皇主体、太一無き個別運営となっている。伊勢にしても、運営は正常では無くなる。

天皇家はインチキ虚構となっている。
今宮内庁も、上乗院破却くしておいて、天皇家は、何の意味も無し。明治に棄却したといい、疑惑が、生じた。 最終更新:2017年8月19日 (土)

明治天皇が、明治に棄却した、これは天皇を、名の、なれる訳は、なかろう。

門跡制度こそ、天皇(上乗院門跡から転送)御手本であった。

 

仁和寺上乗院 道乗(1215-1273):門跡初代か。頼仁親王の王子。蓮華光院門跡住職。東寺長者。

 投稿者:児島宮歴史研究室  投稿日:2017年 8月16日(水)18時35分38秒
返信・引用 編集済
  仁和寺上乗院

http://shinden.boo.jp/wiki/%E4%BB%81%E5%92%8C%E5%AF%BA%E4%B8%8A%E4%B9%97%E9%99%A2

上乗院(じょうじょういん)は、京都にあった寺院。仁和寺の脇門跡(院家)。禅林寺や南禅寺の近くにあった。下河原門跡。南禅寺や聖護院内などにも上乗院という寺があり、あるいは蓮華光院門跡とも混同されることもあったらしい。内山永久寺にも上乗院があった。

組織

住職

『望月仏教大辞典』に以下の22代の名を載せるが疑義あり。他の上乗院と混同している可能性がある。歴代数は新たに付した。
1道乗(1215-1273):門跡初代か。頼仁親王の王子。蓮華光院門跡住職。東寺長者。小島宮と呼ばれた。五流尊瀧院を継いだともいう。
2益助法親王:岩蔵宮出身。下河原宮。蓮華光院門跡住職。
3益性法親王:亀山天皇皇子。蓮華光院門跡住職。
4乗朝法親王(生没年不詳):常盤井宮恒明親王王子。蓮華光院門跡住職。
5道永法親王:蓮華光院門跡住職。
6寛守法親王:蓮華光院門跡住職。
7道朝法親王(1378-1446):後円融天皇の第2皇子。蓮華光院門跡住職。
8道喜法親王(1503-1530):後柏原天皇皇子。
(大覚寺門跡が兼務)
9覚智
10良慧(良恵):
11良覚
12道順
13公誉
14実豪
15実弁
16実済
17尊実
18公禅
19道〓
20増恵
21明弁
22乗伊


カテゴリ: 京都府

1道乗(1215-1273):門跡初代か。頼仁親王の王子。蓮華光院門跡住職。東寺長者。児島宮と呼ばれた。
 

夜須東小田中原遺跡、から出土していた、硯が、今から二千五十年前の夜須広域の時代を物語って、いる

 投稿者:児島宮歴史研究室  投稿日:2017年 8月 9日(水)12時33分29秒
返信・引用 編集済
  夜須、東小田、中原遺跡、から出土していた、石製硯が、今から二千五十年前の夜須広域の時代を物語って、いる。近郊の西小田遺跡も同時代と見ても、良いだろう。

夜須、の名は、会稽安邑の夏王朝の都と同じ、呼び名、が、夜須の起こりで、江南の九州も同じである。

この流域には豊満川が小郡へと流れていて、この豊満川の事を、地元では天の川とよんでいる、その地にある七夕神社、は古代弥生を彷彿させている。
ここで天の川の名は、中国江南の、信仰、が、わが国へ、伝わっている事が、ここから判る。

中国江南の、信仰とは、やま台の事で、対等している。いち早く北部九州で、日本ではこの地を於いて他には、見えていない。

夜須では西小田遺跡や、峰遺跡や七板遺跡が同時代で、それらを、つないでいるのは、小隈窯の土器、灰色硬質土器「須恵器?」と呼んでいる。
この同時代として、やま太信仰と呼ばれる、天神、鬼神信仰が弥生時代に伝播している。夜須内には、、、鬼神山が、筑紫との境に、存在し、夜須文化財課の石井女史の調査で、発掘され、石棺が、弥生時代を、物語るとしておこう。

七板遺跡の近くに、地名の妙見が見え、この名も夜須、四三嶋区に、なっている。
このように小郡区内の七夕神社と妙見は相似している。これ等は城山近郊で、対称している。

この近辺には夜須、あまり適当では無い、弥生であるが、書面上、そうしている。
吹田の川横の田の一メーター下から、五間くらいの長さの赤楠木で作られた船が、古代弥生を表していた。

北部九州夜須には、、同時代、を表す、出土品が、埋もれていた、近畿には、弥生出土品は、夜須遺跡よりも、出土品数は、少ないのは、時代差が、あるという事である。ここに示すように、弥生初期と見てよいだろう。 弥生とは石棺と共に、鉄の鋳造や、木工製作、や灰色土器製造が、広域から出土、している。

弥生とは甕棺と同時に、石棺で始っており、石棺の中には、玉が埋葬され、使っていた、用品が埋葬されていた。
これ等は、近畿には少ない、用品が、見えている。

甕棺に埋葬するのは、江南の石棺に対し、中国の四川省に見られる周人(倭人)と呼ばれている、人たちを、表している。

夜須、東小田、中原遺跡、から出土していた、石製硯の用途は、漢の武帝に時期とも相当といい、紀元前百十年前、の夜須の石製石製硯と見て良いだろう。
この他、灰色硬質土器製円形硯が出土している事から漢民族が夜須の弥生人、と見てとれる。

五世紀の記録に髄の使者が、夜須の住民について、華夏人と、断言している事から先史時代、夜須、東小田、中原遺跡が、を読み取れる。考古学協会の時代の書き直しが、されなければ、古代は埋もれてしまうだろう。


 

八尾万の大神の意味がまだ誰も、判ってはいない、祝詞をあげる神主さえ、八尾万の大神とは、どういう、神にしませば、と、

 投稿者:児島宮歴史研究室  投稿日:2017年 7月21日(金)21時26分50秒
返信・引用 編集済
  八尾王と? 神社の祝詞で、八尾万の大神と、日本人なら、耳にした事があるだろう。
ここで、
八尾万の大神の意味がまだ誰も、判ってはいない、祝詞をあげる神主さえ、八尾万の大神とは、どういう、神にしませば、と、万葉集の中にも、神にしませばと、語っているのだが?
八尾神とは、いったい、どのような、意味が込められているのか、判らないと、神にしませば、が判らない。

おほきみは かみにしませば あまくもの いかづちのうへに いほりせるかも

                                       柿本人麻呂
                                        巻3 235

ここにも出てくる大君とは?
大君は 神にしませば 水鳥の
すだく水沼(みぬま)を 皇都(みやこ)となしつ
  ~作者未詳 万葉集 巻19-4261

大君とは? 八尾になぞらえている。

国学院大学の大君とは? 対象とされる「大君」は、①天武天皇(2例、19-4260、4261)、②持統天皇(3-235)のほか、天武の皇子の③忍壁皇子(3-235或本)、④長皇子(3-241)、⑤弓削皇子(2-205)である。とされていた? これには大君が天皇だとされている?
まるで神の事を、誤解していた。http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_dsg&data_id=68349

神とはそういう、事では、ありません、
これでは意味が無く、神主の専門学校卒の神主、が、同じように、
抱いているとは、情けない神主となる。
神そのものが、判らなくて、、伊勢神宮さえ、偽りの神が、日本中に、はびこって、しまっている事になる。
実にひどい、ものである。
よく、日本の神と、いえるものである。

最近は、明治以降、日本の神仏が、改竄され、神所までも、改竄され、仏の墓所さえ、壊されて、有名な人物の寺中に、無関係な、墓がまん延しても、何も変わらないように、なっているのは、偽造でしかない。
京都の大徳寺や東京の浅草寺も、改竄されくして、墓石までも、破壊し、昔の面影も、見られない、。
そればかりか、関係の無い、墓石が、蔓延して、いる始末、と、神の痕跡さえ、見えなく、なったのも、粗末に、神官や僧の欲に走る、ふとどきさ、の影響によるものだった。

大王は 神にしませば 水鳥の すだく水沼を 皇都となしつ (万葉集 巻十九)4261 「大王は 神にしませば」の表現は、?
日本には大王なる、モノは、一人だけ、で、
他は天皇? といえば、神武天皇系統しか、天皇とは言いません。それも大王が、君であり、水鳥の すだく水沼を 皇都となしつ そのものです。
名は夜須の事です。

では、大王の痕跡が? 夜須には、残って、天皇の祖先の系図に、記されて、います。
又大王の事を大神と、記されていて、平山大神と、記されていた。
ここに、大王は、天皇では無く、王「君」は神にしませば、となっていた。





 

天皇が平山で、岡山の吉備津宮神官賀陽氏、末裔貝原益軒により、判明、

 投稿者:児島宮歴史研究室  投稿日:2017年 6月17日(土)08時39分49秒
返信・引用 編集済
  天皇が平山で、岡山の吉備津宮神官賀陽氏末裔貝原益軒により、判明、ウガヤ王が平山とあるのも、神武東征の後、岡山の吉備津宮で、実在していた事が、福岡県夜須下高場小隈の田屋から、出土した、天図器、の発見で、天皇平山が、揺ぎ無い事実となった。

天地は万古(ばんこ)有るも 賀陽氏末裔貝原益軒

瓦は奈良田原の神武宮廷付近から、出土したもので、賀陽氏末裔貝原益軒の天地と一致した。

鬼神之道とは如何なるものや
於天皆助奉禹祭 越君之後,復夏王之祭。
除天下之災の為 天神祭 鬼神之道とは如何なるものや 皇帝と八尾ゆうを崇拝する。
今の日本は粗末すぎる。

http://lekikenkai.progoo.com/bbs/lekikenkai_thread_3.html

この瓦は、奈良田原の神武宮廷付近から、出土、した雲巻き軒丸瓦で、福建省屏山、地鉄平山駅の工事で、治城跡から、出土した、雲巻き軒丸瓦と一致した。

これ等は、天皇が中国で、始まっていた事の照明となった。

以下天皇が中国で、始まっていた事に、つづく

 

ハビアン【Fabian】 とは 佐久間甚九郎信栄也、岡山市天神町の甚九郎稲荷と一族の宇喜多家

 投稿者:児島宮歴史研究室  投稿日:2017年 5月20日(土)16時20分19秒
返信・引用 編集済
  1565~1620?]安土桃山・江戸初期の日本人イエズス会士で、「天草本平家物語」の編者。山城の人とも、加賀の人ともいう。初め禅寺に入り、恵俊と称した。改宗後、キリシタン教義書「妙貞問答」を著したが、のち棄教してキリシタンを批判した「破提宇子?(ハダイウス)?」を著す。不干斎巴鼻庵。

ハビアン【Fabian】 とは 織田信長の重臣佐久間甚九郎信盛と菅原道真の宗家前田種利の長女を母とし、幼少より、京都柴野大徳寺、高東院、大徳寺の僧となり名は、雲居と称した。
前田種利の長女を母としたところから、加賀の人ともいう。

ハビアン【Fabian】のカテゴリ
幼少より、京都柴野大徳寺大徳寺の僧 恵俊という。
母のジョアンナは北政所(おね、高台院)の侍女となった。始めは大徳寺の禅僧となり、恵春と称したとされる。 1583年(天正11年)、京都で母とともに受洗。高槻、大坂のセミナリヨで学び、1586年(天正14年)にイエズス会に入会して修道士となった。
始めは大徳寺の禅僧となり、恵俊または恵春と称したとされる。 1583年(天正11年)、京都で母とともに受洗。 ... また黒田如水の3回忌法要で遺族・有力者・僧侶・キリスト教者らの参列を前に説教。

ところが1608年(慶長13年)、外国人長上者への反発の末に修道女と駆け落ちして棄教し、1614年(慶長19年)には長崎でキリシタン迫害に協力するに至った。晩年の1620年(元和6年)にはキリスト教批判書『破提宇子』(は・だいうす:デウスを破却する意)を著した。
1565年(永禄8)- 加賀国または越中国にて誕生。幼くして京都、大徳寺あるいは建仁寺に入る。僧名は恵春あるいは雲居。

雲居とは天子の事也。

建仁寺の. 室に入る時ニ高充ヲ始メ船中ノ一雲井ニ隠レ. サセ玉フ。
過去の『医心方』や『喫茶養生記』は宮廷や高い地位の将軍、僧侶の間で読まれる類の書物であっ. たが、貝原益軒 .... 博多に聖福寺、京都に建仁寺、鎌倉に寿福寺などを開創したほか、東大寺大勧進職にも就いた。 茶の普及を .... 雲居斎(雲居希膺). 江戸時代雲居 .

道元が学んだのが雲居道膺(-902年)につながる系統であったためである。

くもい【雲居/雲井】の意味
くもい【雲居/雲井】とは。意味や解説、類語。《「居」はすわるの意。「井」は当て字》1 雲のある場所。雲のたなびいている所。大空。「みずからを―のひばりに比べ」〈倉田・愛と認識との出発〉2 雲。「はしけやし我家 (わぎへ) の方よ―立ち来 (く) も」〈記・中・歌謡〉3 ...

古事記 中」 ③ 雲のかかっているはるかかなた。高くまたは遠く隔たっている所。  天空 平山 天王
雲居とは、 雲居寺(うんごじ)。各地に同名で存在する寺院。 日本人の性の一つ。世帯数が非常に少なく、殆ど創作の中でしか見られない。 もしかして 雲居官蔵(読みは「うんこ」) - 仙人になる.

くもゐ/雲居/雲井 名詞 □意味1 空、雲のある所。 [出典]:鳥は 枕草子 「鶴は、いとこちたきさまなれど、鳴く声雲居まで聞ゆる、いとめでたし。」 [訳]:鶴は、大変大げさな様子ではあるが、鳴く声が空まで聞こえるのは、とても素晴らしい。

雲居の雁(くもいのかり、雲居雁、雲井の雁)は、紫式部の物語『源氏物語』に登場する架空の人物。 名前[編集]. 雲居の雁という名前は本文中には現れず

雲居・雲井【くもい】とは. 1.雲のある所。雲のたなびいている所。大空。または、雲。 2.はるかに遠く、または、高く隔たった所。 3.宮中。禁中。皇居のある所。都(みやこ)。 「井」は当て字。 雲居・雲井【くもい】の例文

「雲居」にかかる枕詞で、「天・空・日・月・光」などにもかか ります。










 

佐久間孫五郎助安は

 投稿者:児島宮歴史研究室  投稿日:2017年 5月 3日(水)21時48分0秒
返信・引用 編集済
  佐久間孫五郎助安

盛保孫五郎助安民部左近文安頃 宗朝子甚九郎盛保

織田家によれば、宗朝為明子甚九郎満盛

朝明宗朝子甚九郎盛保?孫五郎?

朝次は朝明子弥平次


『佐久間孫五郎助安』は、推挙で、近衛中将助安也
左近衛中将藤原助安 佐久間信盛の祖先 ...


伊予 鹿嶋城
所在地: 愛媛県伊予市中村台山
遺 構: 曲輪、空堀
形 式: 山城 築城者: 不明 築城年代: 不明

所在地: 愛媛県伊予市中村台山
遺 構: 曲輪、空堀
形 式: 山城 築城者: 不明 築城年代: 不明

鉄 道: JR予讃本線向原駅~徒歩約10分
 車 : 松山道伊予IC~国道56号線~国道378号線
駐車場: なし。

鹿島山城の城主は、都から来たという藤原右近掾道有(一説では、前近衛中将助安)であった。

藤原盛保は、『御替地古今集』には左近衛中将藤原“助安"と記されています。 『大洲秘録』では、 “中村鹿島の城と云う城跡有り

南北朝期から、戦国時代には前近衛中将助安と言う公家出身の人の位牌が鹿島山法寿院にある。

藤原家→近衛家 - Goo知恵袋
近衛は「御所の近くで帝を衛る」というところから来ているのは分かりました車に関する質問ならGoo知恵袋。 ... 将助安について 伊予の隅々:伊予市前近衛中将助安についてこの人物の情報をご存知の方は近衛中将とは何か? 助安の系図を.

(1446)佐久間孫五郎助安は、 民部丞の官途吹挙状を得ている。『龍興寺文書』 藤原盛保は、『御替地古今集』には左近衛中将藤原“助安"と記されています。

東寺百合文書 - 東寺百合文書WEB
人名:無品親王 七条院(藤原殖子) 藤原氏女 別当左近衛権中将藤原朝臣(栗田口中将房道) 右近衛権少将藤原朝臣(冷泉中将頼茂) 右近衛権少将藤原朝臣(冷泉少将教定) 右 ...





 

レンタル掲示板
/45